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東京地方裁判所 昭和46年(モ)20184号 判決 1972年7月21日

債権者

アメリカン・サイアナミッド・カンパニー

右代表者

イー・ジー・ヘス

右訴訟代理人

田倉整

品川澄雄

本間崇

右輔佐人弁理士

宮田広豊

債務者

三井東圧化学株式会社

右代表者

末吉俊雄

右訴訟代理人

山下朝一

久保田穣

柳原勝也

鎌田隆

主文

当裁判所が、昭和四五年(ヨ)第二、五四六号特許権仮処分命令申請事件につき、昭和四六年一二月一七日にした決定は、これを認可する。

訴訟費用は、債務者の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  債権者

主文と同旨の判決

二  債務者

1  当裁判所が、昭和四五年(ヨ)第二、五四六号特許権仮処分命令申請事件につき、昭和四六年一月一七日にした決定は、これを取り消す。

2  本件仮処分申請を却下する。

3  訴訟費用は、債権者の負担とする。

との判決

第二  当事者の主張

一  申請の理由

1  債権者は、次の特許権(以下、「本件特許権」といい、その発明を「本件特許発明」という。)を有する。

発明の名称 抗生物質テトラサイクリンの製法

特許出願 昭和二九年九月二八日(昭和二九年特許願第二〇、九〇一号)

優先権主張 アメリカ合衆国出願、一九五三年九月二八日および同年一〇月一五日

出願公告 昭和三三年四月三日(昭和三三年公告第二、二四九号)

特許登録 昭和三三年七月一〇日

登録番号 第二四三、六六五号

2  本件特許発明の明細書の特許請求の範囲の記載は、次のとおりである。ストレプトマイセスに属しストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属するか、またはストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を保有する菌株を使用し、放線菌の培養に利用しうる培養基またはクロルテトラサイクリンの生産を抑制するがごとき制御条件の下にある培養基中で好気的醗酵を行わしめ、主たる生産物として抗生物質テトラサイクリンを生産させこのようにして得た培養物より抗生物質テトラサイクリンを採取することを特徴とする抗生物質テトラサイクリンの製造方法。

3  本件特許発明の経過<以下省略>

理由

一本件特許発明の技術的範囲

<前略> そこで、まず、本件特許発明の技術的範囲について判断する。

1  まず、本件特許発明において用いられる菌についてみる。

<書証><証拠>を総合すると、本件特許発明における使用菌株として記載されている「ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属するか、またはストレプトマイセス・オーレォファシェンス種の特徴的性状の大部分を保有する菌株」なる表現は、原則として、ストレプトマイセス・オーレォファシェンス種に属する自然分離菌株とその自然および人工変異株を意味するが、微生物学者において、あるいはストレプトマイセス・オーレオファシェンス種として分類しない菌株であつても、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の菌株が有する形態、性状の大部分を示す菌株をも使用菌に含ましめる趣旨であることが認められる。けだし、本件特許発明の明細書における特許請求の範囲には、右のように使用菌としてスプレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株とならんで、その特徴的症状の大部分を有する菌株を掲記してあり、同明細書中の発明の詳細な説明中にも、その使用菌について同様の記載があつて、これを無視することができないのみならず、同特許明細書中には、菌学者の間でも、微生物の分類はしばしば困難な問題であつて、菌学者が異なれば、同一微生物についても異る分類となることがあるうえ、特にストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株は、その培養の特徴において広い範囲にわたつて変化する旨が述べられている点からみて、右本件特許請求の範囲の表現は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の性状の変化の大きさに着目して、菌学者が、その性状の異なつていることを理由として、同種の菌と同定しない場合のあることを慮つて用いられたものといわなければならないからである。右の点は、本件特許出願についての優先権主張の基礎となつた一九五三年一〇月一五日アメリカ合衆国特許出願のための書類にも、本件特許発明の明細書における前示記載と同様の記載があるうえ、今までのところ、一七にわたるストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する自然分離菌株がテトラサイクリンを生産してきたが、これらの一七の菌株は、全体的な形態や、詳細な検査結果が大きく異なつており、誘導突然変異の研究によれば、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスは非常に異なつた形態学的状況において存在しうることが明らかにされたことが記載され、また、債権者が特許権者となつているテトラサイクリンの製法に関するカナダ特許の特許明細書にも右と同様の記載があることによつても、裏付けられるであろう。<書証>によれば、山梨大学助教授野々村英夫は、本件特許発明の特許請求の範囲における「ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を保有する菌株とは、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスの変種と判断するのが、常識的な解釈であるとの意見を有することが明らかであるが、右意見は、前示認定と矛盾するものでもなければ、右認定を覆えす根拠ともなりえない。すなわち、本件特許発明の特許請求の範囲における右表現が如何なる意味を有するかは、前示認定のとおり、その特許明細書から明らかであつて、あえて常識的解釈を用いる余地がないからである。

被告は、右使用菌の範囲につき、(一)本件特許発明における使用菌として示されるストレプトマイセス・オーレオファシェンス種は、それを発見した訴外ダガーがその性状を開示したA―三七七菌株をもつて標準菌株としてその同定が行なわれなければならない。(二)本件特許発明の特許請求の範囲におけるストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を有する菌株なる表現は、不明確であるから、これは無視さるべきであると主張する。まず、右(一)の点については、なるほど国際菌命名委員会その他により承認された国際菌命名規約によれば、菌の命名者が原著において、単一菌株を記載していた場合は、それを標準菌株とする旨が定められていることが認められ、また、特許請求の範囲の記載に基づいて特許発明の技術的範囲を判断するにつき、普通に用いられる一般的基準を参照しうることはいうまでもないが、当該特許明細書において、かかる一般的基準によらないことが明らかにされている場合にもなお、すべてその記載を排除して右一般的基準によらなければならないものとは到底解することはできない。いまこれを本件についてみるに、前叙のとおり、本件特許発明の明細書には、明確に、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の菌株とならんで「ストレプトマイセス属に属し、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を有する菌株」と記載し、その発明の詳細な説明中にも、菌の分類が、菌学者間では困難な問題であり、菌学者が異なれば同一微生物について異なる分類をすることがあり、同じストレプトマイセス・オーレファシェンスに属する菌株であつても外観および詳細な検査の結果がかなり不同である旨が記載されているのみならず、本件特許発明の特許出願にあたり優先権主張の基礎となつた一九五三年一〇月一五日アメリカ合衆国出願の出願書類にも、出願人が、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスなる種に属する菌株を広い範囲に求める意思であつたことが明らかに看取される限り、掲げられた単一菌株を標準菌株とすべきものとする右菌の分類基準の適用を除外するに妨げがないものといわなければならない。また、右(二)の点については、「ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を有する菌株」という記載内容について、かりに微生物分類学上は明確な定義を下せないとしても、前示認定の事実からみれば、本件特許発明の明細書さらにはその優先権主張の基礎たるアメリカ合衆国特許出願書類においては、むしろ右菌株の特定には、必ずしも微生物分類学上の菌種の区分にはよらない趣旨であることが認められ、また、その特定の方法も、前示認定のとおり、不明確でもないから、直ちにその記載を無視することはできない。

2  次に、本件特許発明における培養法の技術的範囲についてみるに、右培養法は、明かに、本件特許発明の特許請求の範囲に明示のとおり、(一)放線菌の培養に利用しうる培養基を用いる好気的醗酵、すなわち、通常培地における培養と(二)クロルテトラサイクリンの生産を抑制するがごとき制御条件の下にある培養基を用いる好気的醗酵、すなわち、主として塩素イオンを制御した条件下での培養であることが認められる。債務者は、これに対し、本件特許発明の培地に関する技術的範囲としては、塩素イオンの制御された条件下にある培養基を用いるものに限られると主張し、その理由として、(一)先行技術との関係、(二)本件特許出願手続における審査経過、(三)本件特許明細書の記載、(四)一発明一出願の原則、(五)本件特許発明に対応する外国特許発明の内容をあげている。

そこで、右各理由を逐次検討してみるに、先ず、右(一)については、なるほど、クロルテトラサイクリンの製法に関する、いわゆるダガー特許は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属する菌株を通常の培地に培養する方法をその特許請求の範囲としていることが認められるけれども、右事実が直ちに本件特許発明における培地如何を決定せしめる根拠とはなりえない。けだし、前示認定の事実および<書証>を総合すれば、本件特許発明においては、いわゆるダガー特許で使用されたA―三七七以外の菌株を積極的に使用しようとしていることが認められるから、従来用いられてきた培地に、右A―三七七以外の菌株を培養するという組合わせは、当然考えられるところであるからである。なお、本件特許発明の優先権主張にかかる出願日は、いわゆるダガー特許の出願公告日に先立つものである。債務者の右主張は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属するいかなる菌株も塩素イオンの存在する培地においてはテトラサイクリンを生産しないということを前提とするものであるが、本件全疎明をもつてしても、かかる事実は認められないのみならず、前示認定のように、本件特許発明においては、菌学者が、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに分類しない場合もあるような天然および人工変異株をもその使用菌に含ましめようとするものであるから、なおさら右主張はその前提を失うものといわなければならない。また、<書証>によれば、債権者は、また特許発明の出願と同時に、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスの培養液から塩素イオンの含量を減少させる方法の特許出願をし(本件特許発明に対する特許出願の分割出願)、これが審査されたこと、<書証>によれば、債権者は、本件特許発明の特許出願後の昭和三二年一一月二日に、塩素イオンを含む培地に特定の塩素化抑制剤を加えることによつてストレプトマイセス属の微生物を使用し、テトラサイクリンを生産する方法の特許出願をしたこと、<書証>によれば、債権者は、昭和三二年一一月二日、前記出願と異なつた塩素化抑制剤を用いてストレプトマイセス属の微生物を使用しテトラサイクリンを生産する方法の特許出願をしたこと、<書証>によれば、債権者は、昭和三一年三月七日に、臭素イオンを塩素化抑制剤として用いてテトラサイクリンを生産する方法の特許出願をし、その特許明細書には、「クロルテトラサイクリン及びテトラサイクリンは共に醗酵条件に応じてストレプトマイセス・オーレオファシェンス菌株による醗酵で作られることは周知である。特に、クロルテトラサイクリンは栄養培養基に充分同化しうる塩素イオンを含む場合に主として生産される抗生物質である。」との記載があることおよび成立に争いのない<書証>によれば、債権者は、昭和三七年三月二九日、塩素イオンに無関心なストレプトマイセス・オーレオファシェンス菌株を使用してテトラサイクリンを生産する方法の特許出願をし、その特許明細書には、「現在まで塩素イオンを除去したり塩素化阻害剤を添加してクロルテトラサイクリンの生産を抑制していた。」との記載があることがそれぞれ認められる。しかし、右各確定の事実は、本件特許発明の内容を左右する直接の関係をもつものではないうえ、前示認定のように、本件特許請求の範囲には、培地について明文をもつて、普通放線菌の培養に用いられる培地を使用する旨記載されている点からみれば、右のような内容をもつ債権者の他の特許出願があることをもつて、直ちに右特許請求の範囲の記載部分を除外して解することはできないのみならず、むしろ、右各証拠を総合すれば、債権者は、テトラサイクリンの生産方法に関しては、使用菌の面からもまたその培地の面からも、その可能な限りのものの特許を得ておこうという意図がみられ、本件特許発明は、その基本的特許発明として出願されていると推認されるので、かえつて、右各証拠が債権者の主張を裏付けることとなるということさえできる。次に(二)の点についてみるに、本件特許発明の特許出願における最初の特許請求の範囲は、「テトラサイクリン生成微生物を栄養媒体内で実質的抗生活性が生成されるまで成長させ必要に応じ、テトラサイクリンを得ることを特徴とする抗生物質テトラサイクリンの製法。」とされ、これに対して、右範囲は、結局クロルテトラサイクリンの生成法についての先願と同一であるとして拒絶理由通知を受けた。このため、債権者は、最初に、右請求の範囲について、調節かつ制限された量の塩化物イオンを含有する水性培養基にストレプトマイセス・オーレオファシェンスおよびその変異株を培養する旨変更し、次いで、「……クロルを制御した好ましき条件の下においてテトラサイクリンを培養液一CC中に五〇〇g以上を生産しうる菌株を使用し……」と変更し、その後さらに、右第一回目の変更と同じ特許請求の範囲とした後、再び第二回目の変更とほとんど同じものとし、最後に、特許明細書における特許請求の範囲のとおりのもの(冒頭掲記)としたことが認められる。本件特許出願の審査手続の過程において、出願人が行なつた申立てその他が、特許発明の技術的範囲の解釈上もつ意義について考えるに、前示認定事実と前掲<書証>によれば、債権者は、出願公告前の本件特許発明の出願審査の過程において、右審査官から拒絶理由の通知があつた後の第一回の訂正申立書を提出した後に、上申書を提出して、審査を留保されたい旨を申し立て、その後に、前記のとおり四回にわたつて次々と訂正書を差し出しており、その間に審査官から特段の指示ないし意思の表示があつたことを認めるに足りる証拠は存しない。このような場合、むしろ第一回の訂正書の提出後、次々とその訂正は撤回されたものと解することができる。そうとすれば、他に特段の事情の認められない本件においては、債権者は、本件特許発明の出願審査の過程において、テトラサイクリン生成微生物を栄養媒体内で培養しテトラサイクリンを製造するとした最初の明細書の広い特許請求の範囲の記載を、前記拒絶理由の通知にこたえて、限定し明確にした最後の右訂正書以外に、その権利範囲について訂正等の意思を表示したものではないと解するのが相当であるから、かかる撤回された訂正書をもつて本件特許発明の技術的範囲の解釈の根拠とし、これを塩素イオンをほとんど含有しない培養基で培養するもののみに限定すべきものとすることは相当でないものといわなければならない。右(三)の点については、なるほど、本件特許発明の明細書には、債務者主張の表現があることは認められるが、右表現にもとづいて債務者が行なつた解釈は、日本の用語における通常の表現方法とは考えられず、これを肯認することはできない。また、本件特許発明の明細書には、UV―八菌株しか開示されておらず、同菌株は塩素イオンの存在下では、クロルテトラサイクリンしか生産しないとの債務者の主張に関して債務者が提出した<書証>によれば、なるほど、債権者の技術者が、一九五四年(昭和二九年)二月一七日に、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスS―七七なる菌株が、塩素を除いたコーンスティーブ培地で高率のテトラサイクリンを生産するとの報告を行なつたことは認められるが、同号証において、UV―八菌株が、塩素イオンを制御した条件下においてのみテトラサイクリンを生産する旨が明らかにされていることは認められない。けだし、同号証において、UV―八菌株の培養に使用される培地として記載されている合成培地の組成については、同号証中に何の説明もなく、これのみをもつてこの場合の培地が直ちに塩素イオンを制御された培地であると解することはできないからである。<書証>中における合成培地についての記載等も、にわかに右判断を左右させるに足りない。さらに、本件特許発明の明細書における特許請求の範囲の付記は、サブクレームとして解されるという主張については、わが国の特許発明の明細書における特許請求の範囲についての単項式記載方法が、適当であるか否かの立法論はさておき、何ら法律上の根拠はないのであるから、これを肯認することができず、また、本件特許発明の明細書中の実施例には塩素イオンを制御した培地のみしか示されていないが、通常培地における菌の培養は、これを実施例に示されなくても、当業者ならば充分に実施しうるところであるので、これをもつて債務者の主張を肯認する根拠とすることはできない。特に、本件特許発明の明細書のごとく、その特許請求の範囲において、殆ど疑を容れることなく、明瞭に培地の種類が記載されている場合には、債務者の右主張をもつてしては、到底そのうち塩素イオンを制御しない培地について、これを記載がないものとして除外して解することはできない。右(四)の点については、先ず、前示認定のとおり、本件特許発明は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属するかもしくはストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を有する菌株を使用してテトラサイクリンを生産する方法であつて、その培地には塩素イオンを含む場合と含まない場合とがあること、すなわち、培地については、その制限をしないということであるから、これを特に別発明とする必要もないわけである。また、パリ条約第四条F第一項ただし書の規定は、一つの出願について一発明しか含ましめない国のために、優先権を主張して特許出願された発明が、その国の法律によれば単一でない場合であれば、その特許出願を拒絶しうるとしたものであるから、右条約の規定をもつて本件特許発明が一発明であるかどうかの根拠とすることはできない。最後に右(五)の点についてみる。<書証>によれば、本件特許発明について優先権主張の基礎となつた一九五三年九月二八日出願のアメリカ合衆国特許が塩素イオン含有量を制御した培地を用いるものであることおよび<書証>によれば、本件特許発明についての出願がその優先権主張の基礎としている一九五三年九月二八日および同年一〇月一五日の各アメリカ合衆国特許出願を同様に優先権主張の基礎とした英国特許出願、ドイツ特許出願、スイス特許出願と右一九五三年九月二八日出願のアメリカ合衆国特許出願を優先権主張の基礎としたオランダ特許出願は、いずれもテトラサイクリン生産のための培地は、塩素イオンの含有量を制御するものであること、右オランダ特許出願の発明については、同国裁判所において、塩素イオンを制御してテトラサイクリンを生産することは、新規ではあるが、特許を受けうる発明ではないと判断されたこと、前記一九五三年一〇月一五日アメリカ合衆国特許出願は、拒絶理由の通知をされたこと、その出願書類中の実施例Ⅱでは、培地に塩化アンモニウム、塩化マグネシウム等が加えられるけれども、同時に臭化カリウムが加えられ、これが塩素化抑制剤の働きをしているであろうことがそれぞれ認められる。しかしながら、<書証>によれば、本件特許発明の特許出願について優先権主張の基礎となつた右一九五三年一〇月一五日アメリカ合衆国特許出願の出願書類中には、その特許請求の範囲1ないし7において、塩素イオン含有量に制御を加えない培地を用いることが記載されていることおよび実施例Ⅲにおいては、塩化カルシウムを含有する培地を使用する一方、塩素化抑制剤を用いることが示されていないことが認められ、これらの点からみて、右出願書類中の他の実施例が塩素イオンを制御するものであつたとしても、債務者の、本件特許発明の特許出願について優先権主張の基礎となつたアメリカ合衆国特許出願は、塩素イオンを制御した培地のみを用いることをその技術的範囲としているものであるとの主張を肯認することはできず、また、本件特許発明の明細書には、その培地の組成につき、疑義を許さないほど明瞭に記載されており、このような場合、前記のような外国特許を特に参照するまでもないから、この点についても債務者の主張は採りえない。

二特許法第一〇四条適用の有無

債権者が、申請の理由5において主張する、債務者が、テトラサイクリンを訴外ラッシェル・ラボラトリーズ社から輸入し、販売しようとしていることは当事者間に争いがない。

そこで、右債務者の輸入するテトラサイクリンの製法について特許法第一〇四条が適用され、本件特許発明の方法を用いていると推定されうるか否かについて判断する。

1  先ず、特許出願につき優先権の主張がされている場合、特許法第一〇四条適用の基準となる特許出願の日とは、優先権主張の基礎となつた第一国出願の日とすべきか、それとも、実際にわが国において出願された日を指すかについては、両論があるけれも、当裁判所は、右の第一国出願日をもつて特許法第一〇四条に定める特許出願の日と解する。けだし、パリ条約第四条B項は、「……他の同盟国においてされた後の出願は、その間に行なわれた他の出願、当該発明の公表又は実施……その他の行為により不利な取扱いを受けないものとし、また、これらの行為は、第三者のいかなる権利も生じさせない」と規定しており、この規定上、優先権主張にかかる特許発明ひいてその構成に欠くことができない事項の新規性は、優先権主張期間中の第三者の行為により喪失したものとされないこと、すなわち、その新規性は第一国出願の時において判断されるべきものであり、一方、特許法第一〇四条の規定における「日本国内において公然知られた物でない……」とは、その立法の経緯からして、新規なものを意味すると解されるから、同条の物を生産する方法の特許発明における、その物の新規性の判断についても、パリ条約四条B項の規定の適用があり、その判断の基準日は、優先権主張の礎となつた第一国出願日と解するのが相当であり、なおまた、同条約第四条B項後段の「優先権の基礎となる最初の出願の日の前に第三者が取得した権利に関しては、各同盟国の国内法令の定めるところによる。」との規定を反対解釈しても、右第一国出願日以降に生じた事実については、国内法令をもつて、優先権主張者に不利に取り扱いえないと解するのが相当であるからである。したがつて、本件についても、債務者が輸入するテトラサイクリンの製法が権利方法によるとの推定を受けるため、わが国内において公然知られていたか否かの判断がされる基準時は、本件特許発明の出願について優先権主張の基礎となつたアメリカ合衆国特許出願の日である一九五三年九月二五日および同年一〇月一五日であるといわなければならない。これに対して、債務者は、かりに一般的には、パリ条約にもとづく優先権の主張のある場合において、特許法第一〇四条の規定する出願前とは、第一国出願の日を意味すると解されるとしても、本件においては、次の特殊事情が存するから、わが国における特許出願の日をもつて、特許法第一〇四条における出願の日とされるべきであると主張する。すなわち、(一)本件特許発明の出願について優先主張の基礎となつたアメリカ合衆国出願の日には、既にアメリカ合衆国では、テトラサイクリンは公然知られていた。(二)本件特許発明は、わが国においてかりに物質特許が許されたとしても、物質特許はとりえなかつたものであるというのである。そこで先ず、右(一)についてみるに、なるほど<書証>によれば、債権者のレダリー・ラボラトリーズに属する訴外ジェー・エイチ・ブース外四名は、一九五三年九月二〇日発行のジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ七五巻一八号に、クロルテトラサイクリンからテトラサイクリンを還元する方法を開示し、また、同雑誌において、訴外チャールス・ファイザー・アンド・カンパニー・インコーポレーテッドのリサーチ・ラボラトリーズに属する訴外エル・エイチ・コノバー外四名はテトラサイクリンの抗菌活性および製法を開示し、なお、一九五二年一〇月九日発行の同誌七四巻一九号においては、訴外チャールズ・ファイザー・アンド・カンパニー・インコーポレーテッドのリサーチ・ラボラトリーズに属する訴外シー・アール・スチーブンス外六名は、オーレオマイシンとテラマイシンの双方に共通の構造式を発表し、これにテトラサイクリンと名付けたことが認められる。したがつて、右のうち後者の発表はともかくとして、前者の発表により、本件特許発明の目的物は、その優先権主張の日には、第一の出願国であるアメリカ合衆国において公然知られたものとなつていたことが明らかである。しかしながら、右事実をもつて直ちに本件について特許法第一〇四条が適用されるべきではないとか、その新規性の判断の基準時をわが国での出願のときにするとかの根拠とすることはできない。けだし、特許法第一〇四条は、「……日本国内において公然知られた……」と規定し、新規性判断のための場所の範囲は、わが国内に限られることを明示しているのであるから、かかる明文の存するにもかかわらず、これを排し、他国において公然知られた事実をもつて同条の適用を排斥すべきものとする十分な理由がなく、また、同条は、わが国において新規な物資についての生産方法の特許発明を保護しようというのであるから、他国において、その物質が新規であつたか否か、わが国において、その物質が公然知られうべき物であつたか否かは同条の関知するところではないからである。出願発明が、公然知られたものである場合だけでなく、公然知られうべきものに該当するときも、特許を受けえないと解されているのは、そこでは、特許性判断のための客観的技術水準如何が基本的には問題とされているからであり、それは、ある物が、わが国において特定の状態にあるがゆえに、その生産方法が推定され、これにより特許権者を保護せんとする特許法第一〇四条の場合とは、見地を異にする。次に右(二)についてみるに、<書証>によれば、訴外チャールス・ファイザー・アンド・カンパニー・インコーポレーテッドは、昭和二八年一〇月二二日、わが国に、クロルテトラサイクリン抗生物質を触媒の存在下に水素と接触させることによりテトラサイクリンを製造する方法につき特許出願(昭和三一年三月一六日出願公告)をし、これについて一九五二年一〇月二三日のアメリカ合衆国出願を基礎として優先権の主張をしていることが明らかである。この場合、本件特許発明の出願については、かりに、これをテトラサイクリンについての物質特許として出願することが許されたとすれば、右訴外会社の出願が先行するため特許されないであろう。しかしながら。右事実をもつてしても、いまだ本件について、特許法第一〇四条の適用に関し、その新規性の判断の基準時をわが国における特許出願のときと解することはできない。なるほど同条が制定された理由および優先権の主張されている特許出願について、同条に規定する新規性の判断の基準時を、第一国出願の日とする根拠の一つとして、わが国においては、化学方法により製造されるべき物質の発明については、特許権を与えられず、その生産方法の発明についてしか特許を受けることができないので、第三者の権利侵害に対して、その生産方法の立証が困難であることから、特許権者を保護するためであることがあげられ、本件のように同一の目的物の生産方法について先願発明がある場合まで、新規性判断の基準時を第一国出願のときとして保護する必要がないとの考え方も成り立ちうるであろう。しかし、特許法第一〇四条の規定は、必ずしも化学方法により製造されるべき物質について特許が与えられない代償としてのみ適用されるのではなく、一般に方法の特許発明については、その侵害に際して、侵害者の実施方法の立証が困難であることから設けられていることは、同条が単に「物を生産する方法の発明について……」と規定していて、それ以上に特に限定を付していないことからも明らかであり、また、優先権の主張がされている方法の特許出願について、同条における新規性判断の基準時を第一国出願のときとする理由も、前叙のとおり単に化学方法により製造される物質の特許発明の保護につきるものでもないから、右債務者主張の事実をもつて、本件について、目的物質の新規性判断の基準時を、わが国における出願のときと解すべき根拠とはなしえない。しかもなお、本件においては、本件特許発明の方法と右ファイザー社の先願にかかる発明の方法とは、異なるものであることが右認定の事実から明らかである。

2  そこで次に、本件特許発明の目的物質が特許法第一〇四条の適用については、出願の日と解すべき優先権主張の日である一九五三年九月二八日および同年一〇月一五日に、日本国内において公然知られたものでなかつたかについてみる。<書証>によれば、右優先権主張日の前である昭和二七年一一月一四日に国立国会図書館に受け入れられたジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ七四巻一九号に記載された論文には、オーレオマイシンとテラマイシンに共通な化学構造式が示され、これにテトラサイクリンなる名称を与えることが示唆されていて、その構造式は本件特許発明の目的物質と同一であることおよび昭和二八年一〇月一八日に訴外松下電器産業株式会社図書室で受け付けられたジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ七五巻一八号には、クロルテトラサイクリンをパラジウムとトリエチルアミンの存在下に脱塩素化して、テトラサイクリンを生産する方法を記載した論文と、クロルテトラサイクリンをパラジウムカーボンの存在下で、テトラサイクリンとする方法を記載した論文とが掲載されており、右訴外会社図書室では、一週間に入荷した図書をその週末までに受付処理していることが認められる。そこでまず、右ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ七四巻一九号記載の論文の受入れの意味するところについてみるに、同論文は、たしかに、本件特許発明の優先権主張日以前にわが国に受け入れられてはいるが、その論文の要旨とするところは、前示認定のとおり、オーレオマイシンとテトラマイシンの双方に共通の部分がAなる構造であつて、そのAをテトラサイクリンと名付けたいということである。ところで、特許法第一〇四条にいう「その物が……日本国内において公然知られた物」の意味につき、当裁判所は、その物が必ずしも現実に存在することは必要ではないが、少なくとも当該技術分野における通常の知識を有する者においてその物を製造する手がかりが得られる程度に知られた事実が存することをいうものと解するところ、右論文においては、単に理論上かかる構造部分が考えられることを示したのみであつて、その製造に関する手がかりは何ら示されてはいないから、いまだ右論文の受入れをもつて、直ちにその物が、日本国内において、公然知られたということはできない。また、前示認定の事実によれば、ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ七五巻一八号記載の論文が受け入れられたのは昭和二八年一〇月一八日であるから、同論文は、本件特許発明の特許出願についての優先権主張日である同年九月二八日および同年一〇月一五日以前に、わが国に受け入れられたものではなく、したがつて、これをもつて同論文記載の物質が本件特許発明の特許出願についての優先権主張日以前に、わが国において公然知られたものではないとはいえなくなつたとすることはできない。債務者は、これに対し、テトラサイクリンは、クロルテトラサイクリンの生産が開始された一九四八年以来、人の手によつて生産されてきたものであるから、かかる状況の下でテトラサイクリンの構造式が明らかにされたならば、それは公然知られたことになると主張する。なるほど、<書証>によれば、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株を用いてクロルテトラサイクリンを生産する際に、テトラサイクリンも生成されたことは認められるが、かかる場合にテトラサイクリンの生成が意識されていたと認めるに足る証拠はなく、もともと、発明とは、人の意識的な創作であるべきものであるから、たとえ、人の手によつて生産されていたとしても、かかる人の意識外にある物質は天然物と何ら異なるところはなく、これをもつてその存在が公然知られたということもできなければ、また前示認定のように、その構造式が理論上考えられていたとしても、右の実物の存在と構造式を結合すべき何らの資料もない本件においては、単に右二つの事実があることをもつて、テトラサイクリンが当時公然知られていたとすることもできない。

以上認定の諸事実からすれば、本件特許発明についての優先権主張日である一九五三年一〇月一五日以前においては、テトラサイクリンは日本国内において公然知られたものではなかつたと認められるから、本件特許発明の目的物質であるテトラサイクリンを生産する者は、特許法第一〇四条により、本件特許発明の方法によつて生産したものと推定される。

ところで、特許法第一〇四条にもとづいて生産方法が推定されるということは、同条に該当する事案の場合においては、特許権者は、同条所定の要件を主張、立証すればよく、その要件がみたされる限り、その相手方において、実施している方法を開示するのみならず、その実施方法が、侵害されたとする特許権の技術的範囲に属しないことまでをも主張、立証しなければならないと解すべきものである。けだし、特許法第一〇四条のように法文上「……推定する。」と規定される場合には、その法文について特段の事情の認められない限り、一般にいわゆる法律上の推定として、前提事項の証明があれば、法文の定める効果が認められ、相手方において、その推定命題が誤であることを立証しなければならないと解すべきであり、また、かく解することが右特許法第一〇四条の立法趣旨である物の生産方法について特許権を有する者の保護の目的にも添うものだからである。債務者は、この点につき、特許法第一〇四条における立証責任の分配を右のように解釈することは、特許権を侵害したと主張される者にとつては耐えられないところであると主張するけれども、右第一〇四条に定められた要件である特許発明の目的とする物が日本国内において公然知られたものでないことおよび相手方の生産する物が特許権の目的物と同一であるとの点の立証責任は、特許権者がこれを負担しなければならないことを考慮すれば、必ずしも相手方が一方的に重い立証責任を負わされるということはできない。

したがつて、本件においては、債務者は抗弁をもつて、そのテトラサイクリンの生産方法およびそれが本件特許発明の技術的範囲に属さないことを主張し、かつ立証しなければならないものと解する。

三本件仮処分の必要性

1  <書証>を総合すると、債権者は、訴外日本レダリー株式会社、同台糖ファイザー株式会社、同万有製薬株式会社、同明治製菓株式会社、同日本アップジョン株式会社、同第一製薬株式会社および同田辺製薬株式会社に対し、それぞれ本件特許権を含むテトラサイクリンの製法に関する特許権について実施あるい品は再実施を許諾し、また、右訴外日本レダリー株式会社は、債権者と訴外武田薬品工業株式会社の出資によつて設立された会社であつて、わが国におけるテトラサイクリンの製造、販売は、債務者が本件輸入に着手するまでは、殆ど右債権者から実施もしくは再実施の許諾をうけた訴外各社がその市場を占有するところであり、債務者の本件行為によつて、その販売量が減少するかあるいは増加すべき販売量が増加しない結果となることが認められる。しかし、右認定においても明らかなように、右訴外各社が製造および販売するテトラサイクリンは、必ずしも本件特許発明の方法によつて製造されたものに限られない。債権者は、この点につき、たとえ本件特許発明の方法によらないで生産されたテトラサイクリンであつても、債務者が本件特許権を侵害してテトラサイクリンを輸入し、販売し、よつて右訴外各社の販売量を減少し、その結果債権者の受ける実施料あるいは出資に対する配当が減少した場合には、右債務者の特許権侵害行為と相当因果関係にある損害とみるべきであると主張する。しかし、当裁判所としては、債権者の右主張は、これを肯認することができない。けだし、本件において、債権者が侵害されたと主張する権利は、本件特許発明の明細書に記載された範囲の特許権であつて、かかる権利が侵害されたからといつて、本件において侵害されたと主張されていない権利に関して生じた損害についてまで、その賠償を求めることはできないものといわなければならないからである。

2  ところで、<書証>によれば、債権者は、訴外日本レダリー株式会社との間で、本件特許発明の方法により、同訴外会社が製造するテトラサイクリンについては、債権者が一グラムあたり金一〇円の実施料の支払を受けうべきものであることが一応認められる。そして、前示認定のとおり、同訴外会社は、債権者の出資になる会社であるから、もし債権者が他に本件特許権の実施を許諾するとしても、その実施料は右の額を下らないことは容易に推認される。一方、<書証>によれば、債務者は、テトラサイクリン3.5トンの輸入につき、昭和四五年四月から九月の外貨の割当を受け、同年中に右輸入したバルクを訴外富山化学工業株式会社ほか三社に販売しはじめ、昭和四六年に入つて、その販売量は急激に増加し、現在はバルクに換算して、一カ月約一トンを販売するまでになつている。また、債務者は、その出資になる訴外三井製薬株式会社をして、右輸入したテトラサイクリンの製剤、販売を行なわせる準備をしているほか、前記販売先とともに販売流通機構の確立に努力している。

以上認定の事実によれば、債務者が訴外ラッシェル・ラボラトリーズ社から輸入し、わが国の市場に流入するテトラサイクリンの量は現在よりもかなり増加するであろうし、右販売機構を通じてわが国におけるテトラサイクリン市場での地盤を確保することになるであろうことが認められる。したがつて、債務者は、今後、少くとも一か月約一トンの割合でテトラサイクリンを輸入するとみられるから、債権者は、本件特許権の残存期間中、一ケ月につきテトラサイクリン一トンあたりの実施料相当額金一、〇〇〇万円の割合で損害を被るだけでなく、債務者が、本件特許権の存続期間満了前に本件侵害行為を行なつて、その市場における販売流通機構を確立してしまうことにより、その存続期間満了時までには、著しく不利な立場に立たされることになる。すなわち、本来ならば、特許権について実施許諾を受けていない者は、その特許権の存続期満了後にはじめてその実施品の製造、販売をはじめ、市場に出て行き、そのときを出発点として漸次市場での活動の地盤を築いて行かなければならないのに対し、その満了前に、特許権を侵害して実施品を製造、販売し、市場での地歩を占めてしまえば、その特許権の存続期間満了のときには、既にかなりの市場占有率を保持することができ、しかもこれに対しては、特許権者であつた者は、かかる事情の下に生じた損害の賠償を請求することはかなり困難であり、ことに、その損害額を立証することは殆ど不可能であるから、まず損害の賠償請求もできないことになり、実際には特許権の存続期間を短縮されたのと同じ結果となつてしまうであろう。

3  以上の諸点からみると、本件での債務者のテトラサイクリンの輸入行為が、本件特許権の侵害になるとすれば、債権者にとつては、その損害は相当多額となるのみならず、金銭をもつて回復し難い損害も生じることになるから、仮処分によつてその侵害行為の差止を求める必要性があるといわなければならない。債務者は、これに対し、本件テトラサイクリンの輸入行為を差し止められることは、債務者にとつて損害が大きく、今までに行なつた多額の投資が回収不能となる旨主張する。しかしながら、右のようにその賠償を請求し難い損害が生ずるおそれがあるのみならず、債務者において多額の投資を行なつて、特許権の存続期間間中に市場を席巻することが明らかであれば、それだけ、その侵害行為差止の必要性は大きいものといわなければならない。

四債務者の抗弁についての判断

債務者が輸入するテトラサイクリンの製造方法が、債務者主張のとおりであることは当事者間に争いがない。

1  そこで先ず、右債務者の輸入品の生産に使用されている菌であるストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニ一〇六―T(NCIB九五〇〇)が本件特許発明における使用菌の種類に属しないかについて判断する。

既に本件特許発明の技術的範囲について判断したとおり、本件特許発明における使用菌は、(一)ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株と(二)ストレプトマイセスに属し、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を保有する菌株とであつて、右(二)の菌株が加えられたのは、同じストレプトマイセス・オーレオファシェンンス種に属する菌株であつても、その外観において、互に非常に異るものがあり、菌学者によつては、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種として分類されない場合があることをおそれて、かかる菌株をも含ましめることを考慮したためのものである。債務者は、これに対し、菌の分類、同定については、その親株によるべきであることを主張するけれども、かかる主張の微生物分類学上の当否はさておき、本件特許発明における使用菌の範囲については、前掲疎甲第二号証によれば、本件特許発明の明細書中には、「テトラサイクリンは例えばストレプトマイセス・オーレオファシェンスの多くの天然分離菌の成長によつて生成された。」との記載があり、また前示本件特許発明の技術的範囲についての判断において認定したとおり、本件特許発明の特許出願について優先権主張の基礎となつた一九五三年一〇月一五日アメリカ合衆国特許出願書類には、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属する天然分離菌について詳細な説明がなされている点からみて、本件特許発明の使用菌の中には、天然分離菌株をも含ましめる意図が明らかであるところ、天然分離菌株について親株を比較することは不可能であり、また、その変異株についても、右明細書のなかにおいては、専ら、その形態的な面からのみその特徴的性状が記述されている点からみて、本件特許発明においては、その使用菌の範囲の確定のため親株を用いていないことが明らかであるといえる。

債務者は、その輸入テトラサイクリンの生産に用いられたストレプトマイセス・バール・テトラサイクリニ一〇六―T菌株が、本件特許発明の使用菌に属しないことにつき、多数の疎明を提出しているので、これを前示認定したところにもとづき逐次検討することとする。

(一)  <書証>によれば、広島大学教授である訴外能美良作は、「菌株一〇六―Tは、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株でもなければ、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を保有する菌株でもない。」との結論をもつ意見書を作成していることが認められる。しかし、同意見書は、訴外エルウッド・ビー・シャーリングおよび訴外イバン・ビラックスの各宣誓供述書を検討した結果によつて作成されたものであつて、右意見書の作成者自らがした右菌株についての実験の結果を報告したものではないのみならず、<書証>によれば、右宣誓供述書の作成者訴外エルウッド・ビー・シャーリングは、結局、債務者の輸入テトラサイクリンの生産に使用された一〇六―T菌株は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属するとの意見であつたことが明らかであつて、右訴外能美良作の意見そのものが、この意見に対する意見という間接的なものであるといわざるをえない。ことに同意見書には、「放線菌の或る菌株が、どの種に属するかを決定するにさいして、それが突然変異株の場合は、その原株である自然分離菌株について検討しなければならない」との記載があり、なるほど、このような立場は、微生物分類学上一つの考え方であろうし、また、特許明細書にも何らの限定もない場合は、その技術分野における通常の知識にしたがつて、その特許の技術的範囲が解釈されるべきであるが、本件のように、その親株を問題としていないことが特許明細書から明らかである場合には、右記載の趣旨にしたがつて考究するのが相当であり、したがつて、右意見書は、にわかにこれを判断の資料として採用することができない。

(二) <書証>によれば、ブラドフォード大学の微生物学先任講師である訴外トーマス・クロスは、宣誓供述書において、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスと、債務者が輸入するテトラサイクリンの生産に使用される一〇六―T菌株を比較し、結論として、工業用突然変異株である一〇六―T(NCIB九五〇〇)は、ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニに同定されねばならず、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスには同定されないと述べていることが認められる。しかしながら、同宣誓供述書には、右結論に到達する前に、「プリッダム等により提案された分類体系を用いれば、NCIB九五〇〇は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスと同一の形態学的区分および系統に属するが、この分類体系は種の段階でストレプトマイセスを同定するにあたつては適用されえない。」「エトリンガー等により提案された分類体系を用いれば、NCIB九五〇〇は、気菌系の形態において差異はあるけれども、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスとして分類される。」「国際ストレプトマイセス・プロジェクトで現在使用されている基準を用いれば、菌株NCIB九五〇〇は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスの記載に類似の性質を示すことになろう。」という記載がある。そして、既に前示認定のとおり、本件特許発明の明細書において使用菌につきとられた記載は、まさにこのような微生物分類学者によつては、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属するとされたりされなかつたりする菌株をも含ましめるためであるから、右宣誓供述書の記載は、むしろ、一〇六―T菌株が、本件特許発明における使用菌に属することを裏付けたものということができる。

(三) <書証>によれば、カリフォルニア大学の細菌学の準教授である訴外グレゴリー・ジェイ・ジャンは、その宣誓供述書において、バージーズ・マニュアル第七版の分類にしたがい判断をして、ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニ一〇六―T菌株は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種とは別のストレプトマイセス種に属する種であるとの結論を出している。しかし右結論にいたる実験は、同宣誓供述書においては、きわめて簡単に記載があるだけで、その過半の部分は、前記訴外エルウッド・ビー・シャーリングの宣誓供述書記載の実験結果の検討がされている。そして、右訴外ジャン準教授の実験結果では、ボテトプラグ、ツァベック寒天およびチロシン各培地における一〇六―T菌株、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株(NRRL―二二〇九ほか三菌株)のそれぞれの生育状況は、右訴外シャリングの実験結果と殆ど一致しており、この点は同訴外ジャンも認めるところである。したがつて、同訴外人の前示結論と、前示訴外シャーリングが前掲<書証>において示す結論が異なるのは、まさに、微生物分類学者間における実験結果に対する見解の相違に帰せられるものというべきである。そうとすれば、既に、本件特許発明の技術的範囲について判断したとおり、本件特許発明において使用菌の範囲に、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスの特徴的性状の大部分を存する菌株を含ましめたのは、ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種が非常に異なつた形態学的状況において存在しうるため、微生物分類学者によつては、右ストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属する菌株の範囲を狭く解し、本件特許発明の技術的範囲に属すべき使用菌が除外されることをおそれたものであるから、まさに、右訴外ジャンと訴外シャーリンダの右両実験結果のごとき場合を予想したものというべく、訴外ジャン作成の右宣誓供述書は、これを訴外シャーリングの前掲宣誓供述書と総合して考察するとき、債務者が輸入するテトラサイクリンの生産に使用される一〇六―T菌株が本件特許発明における使用菌でないとの立証資料としては採用するに足りないといわなければならない。

(四) <書証>によれば、ホーエンハイム農科大学の微生物学および植物病理学の教授である訴外ディーター・クネーゼルは、その宣誓供述書において、バージーズ・マニュアル第七版にしたがつて分類をした結果として、一〇六―T菌株は、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスとは異つた別の生物であるとの結論をだしていることが認められる。しかしながら、同宣誓供述書には、一〇六―T菌株についての実験の結果のみしか記載がなく、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属するどの菌株が如何なる生成の形態を示したかの通常の比較分類実験の結果報告にみられる記載はないのであつて、右の異つた別の生物であるとの結論も、一〇六―T菌株が、実験に供したストレプトマイセス・オーレオファシェンスの特定の菌株と異なるというのかあるいは種を異にするとまでいうのか不明であり、にわかに判断の資料となしえないのみならず前認定の本件特許発明における使用菌についての技術的範囲を考慮するとき、右宣誓供述書におけるごとく、一種類のみの分類によつて菌の同定を行なつた実験結果は、直ちに本件における判断の資料として採用することはできない。

(五) <書証>によれば、訴外ラッシエル・ラボラトリーズ・インコーポレーテッドの製造部長である訴外バーナード・マリンは、その宣誓供述書の中で、一〇六―T菌株とUV―八菌株とを二つの異つた培地で培養し、クロルテトラサイクリンとテトラサイクリンの生成量を測定し、その結果として、UV―八菌株は一〇六―T菌株と根本的に異つているとの結論をだしている。しかし、UV―八菌株は、本件特許発明の明細書の実施例において用いられている菌にすぎず、本件特許請求の範囲における使用菌の特定の仕方は、特定の培地におけるクロルテトラサイクリンもしくはテトラサイクリンの生成能力というがごときものによつているわけではないのであるから、かかる明細書と異つた見地より菌の比較を行なつても、これを直ちに本件特許発明の技術的範囲に属するか否かの判断の根拠とすることはできない。

(六) <書証>によれば、訴外社団法人北里研究所勤務の訴外秦藤樹および同松前昭広は、その実験報告書において、ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニに属するNCIB九七〇〇と九五〇〇(一〇六―T)、ストレプトマイセス・オーレオフアシェンスに属するATCC一二四一六C(UV―八)とNRRL二二〇九(A―三七七)とを比較し、前二者と後二者とは異なる菌種であるとの判断に到達している。しかしながら、本件特許発明における使用菌は、微生物分類学上の厳密な区分にしたがつて特定されることを趣旨としたものでないことは既に判断したとおりである。したがつて、右結論をもつて、直ちに、債務者使用菌一〇六―Tが本件特許発明の使用菌に属さないとすることはできない。いま、本件特許発明の使用菌の範囲の特定につき、その明細書の前認定の旨趣にしたがい、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスを微生物分類学におけるよりも広く解する立場にたち、右実験報告書を検討すると、まず、炭素源の利用能をみるとき、NCIB九五〇〇は他の三菌株に較べて、その利用の幅が狭く、他のストレプトマイセス・オーレオファシェンスとストレプトマイセス・ルシタヌスとの三菌株の間には大きい差異はなく、生化学的培養性状においては、NCIB九七〇〇のみミルクをペプトン化し、硫化水素を産生し、硝酸塩を還元等するが、他の三菌株は何の変化も示さず、血液寒天では、ATCC一二四一六Cのみ他の三菌株と異なり接種一日後に溶血を示し、澱粉では四菌株ともこれを分解し、合成培地上の栄養菌系の色調は、NCIB九五〇〇のみがやや他の菌株と異なるだけであり、四菌株ともあまり特徴的な色調を示さず、非合成培地のポテト・デキストロース寒天上では、NCIB九五〇〇の栄養菌系のみが濃茶の色調を示す点で他と異なり、他の菌株のそれは明るい黄系の色調であり、コーン・スティーブ・リカー寒天上では、NCIB九五〇〇とNRRL二二〇九は成育しない。血清培地上ではNCIB九五〇〇のみ成長しない。非合成培地上の胞子の色調では、NRRL二二〇九が他と異なるが、キャロット・プラグ・ポテト・プラグ上では、ATCC一二四一六Cが他と異なる。以上のように、右実験中でも、かなりの場合にストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニに属する二者とストレプトマイセス・オーレオファシェンスに属する二者とを区別しえない結果となつているばかりでなく、右実験全体を通じてみても、右両者を画然と区別する性状は、前二者がクロモゲネシティ・タイプであるのに対し、後二者が非クロモゲネシティ・タイプであるぐらいであり、その他は必ずしも明瞭な差を生じていないともいえる。右実験の結論は、実験全体を総合的に判断し、菌学者としての立場と知識経験から導き出されたものと考えられるが、本件特許発明の明細書における菌の特定についてのように、菌学者によつては、その同定の結果が異なるものでもその使用菌範囲に含ませるという立場をとつた場合も、結論が同一となるかは疑問であつて、直ちに右の結論を本件債務者の主張の認定に用いることはできないものといわなければならない。(七)証人イバン・ビラックスの証言およびこれにより真正な成立の認められる<書証>によると、本件において債務者が輸入するテトラサイクリンの生産に用いられている一〇六―T菌株の親株は、同証人がフランスのミグールの実験農場の土壌から分離したもので、ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニと命名し、その後これに紫外線を照射して変異処理した菌株をT菌株とし、これを訴外フェルメントファルマ社に譲渡し、同所で、同証人の監督下に一〇回にわたつて紫外線照射を行なつて一〇六―T菌株をえたことが明らかである。ところで同証人は、右土壌分離菌にストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニと命名したのは、右菌株がストレプトマイセス・ルシタヌスと緊密な関係にあると考えていたからであつたが、その後電子顕微鏡写真によつて、右土壌分離株は、とげ状の胞子表面をもつていることが判り、なめらかな胞子表面をもつているストレプトマイセス・ルシタヌスと異なつたものであることが明らかとなつた旨陳述している。しかし、<書証>によれば、同証人の論文(アンタイマイクロビアル・エイジェンツ・アンド・ケモセラピー一九六二年所載)の電子顕微鏡写真に関する説明においては、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスNRRL二二〇九、ストレプトマイセス・ルシタヌスCBSA―一〇一およびストレプトマイセス・ビリディファシェンスATCC一一九八九の三菌株の胞子柄の電子顕微鏡写真について三者ともに僅かのちがいが認められると記したのみであるが、右A―一〇一菌株は、同論文からは、前示ミグールの実験農場から得られた土壌分離菌株であることが明らかであるから、もし右論文作成当時、同証人が前記証言の点について意識していたとしたならば、何故にこのような記述しかされなかつたのかが疑問となる。また、同論文中には「ストレプトマイセス属についての現在の分類法の下でのストレプトマイセス・ルシタヌスの位置に関し、一方においては、これを細かく分類して区別すべしとする者と大きく分類して統合すべしとする者とがある傾向と、他方においては、ストレプトマイセスの分類についてもろもろの専門家の意見が相対立しているということとの現時の論議を考慮のうえ、我々は全く異なつた方法でこの分類の問題ととりくもうとする実験研究を行なつてきた。」との部分があり、むしろここでは、ストレプトマイセス・ルシタヌスのストレプトマイセス属における位置付けを如何にするかが問題とされており、前示土壌分離菌株がストレプトマイセスルシタヌスとは別異の菌株であることについては全く触れられていない。そしてもし、同証人が右論文作成のときに、前示分離菌株がストレプトマイセス・ルシタヌスと全く別異のものであると考えていたならば、右論文においてはわざわざその分類を試みることは全く無意味なものとなつてしまうわけであるから、少なくとも同証人は、右論文の作成にあたつては、前示分離菌株は、ストレプトマイセス・ルシタヌスに属するとの前提に立つていたものと解せざるをえず、これは、前示証言と矛盾していることになる。さらに、同論文には「ストレプトマイセス・ルシタヌスは可溶性の黄色色素を生産するが、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスおよびストレプトマイセス・ビリディファシェンスは色素を生産しない」との記載があるけれども、<書証>によれば、バージーズ・マニュアルにおいては、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスは、黄金色の可溶性色素を出すことが明らかであり、また、じゃがいも切片上でも、右論文では、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスは典型的な黄金色であるのに、前示バージーズ・マニュアルではオレンジ黄色の発育となつている。そして何故に、右パージーズ・マニュアル記載の発育形態と異なつているのかは明らかにされておらず、同論文における実験結果の正確性については説明が不足であるといわなければならない。さらに、前掲<書証>によれば、同証人の宣誓供述書には、一〇六―T菌株の性質について、突然変異を繰り返すことにより、「胞子柄のらせん形は失われ鉤形およびループ形になつていること、エトリンガーのチロシン寒天をも含めて多くの合成培地での成育能の喪失、多くの炭素源利用能ならびに成熟コロニーの胞子の顕著な暗色化能の喪失を受けている。しかしながら、その他の性質のうち、次の性質によつて、ストレプトマイセス・オーレオファシェンスと区別される。すなわち、ベンネット寒天、エマーソン寒天、人蔘馬鈴薯寒天、信夫のチロシン寒天等の種々有機培地上でのクロモゲニシティである。これらの種々の培地では原土壌単離菌ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニもメラノイド色素を生産する」との記載があるが、前認定のとおり、本件特許発明において、その使用菌株としてストレプトマイセス・オーレオファシェンス種の特徴的性状の大部分を有する菌株が含まれる限り、右クロモゲニシティに関する観察以外に如何なる種類の実験が行なわれ、その結果示された性状に相違があつたのか、さもなくば、クロモゲニシティにおける相違のみをもつてしてもその特徴的性状の大部分が異なるという結論を引きだせるという論的根拠が示されない以上、これをもつて、右一〇六―T菌株が、本件特許発明の権利範囲に属す使用菌株ではないとの認定の資料とすることはできない。

したがつて、右の諸事実からみれば、イバン・ビラックスの証言、論文および宣誓供述書には、それぞれの重要な部分に相互の矛盾あるいは不充分な点があつて、これらをもつて、一〇六―T菌株が本件特許発明における使用菌株に属しないということはできない。

以上に判断を示した諸証拠のほかに、本件において、債務者の使用菌ストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニ一〇六―Tが本件特許発明の技術的範囲に属しないことを立証するに足りる証拠はない。したがつて、ここに右各証拠に対する反応について論及するまでもないわけであるが、<書証>によれば、外国の国家機関あるいはかなりの数の菌学者が、債務者の輸入するテトラサイクリンの生産に使用される一〇六―T菌株がストレプトマイセス・オーレオファシェンス種に属するかあるいはストレプトマイセス・オーレオファシェンス種と類似の性状を有するものとの判断をしていることが明らかであり、これらは十分な反証となりうるものといわなければならない。してみれば、本件においては、債務者が輸入するテトラサイクリンの生産に使用されるストレプトマイセス・ルシタヌス・バール・テトラサイクリニ一〇六―T菌株が本件特許発明における使用菌株に属しないとの疎明はされなかつたことになり、結局、債務者が輸入するテトラサイクリンは、本件特許請求の範囲に定める使用菌株を使用して生産されたものと推定される。

2  次に、債務者が輸入するテトラサイクリンの生産に使用される培地についてみるに、既に認定のとおり、本件特許発明においては、その技術的範囲に塩素イオンを制御しない、通常、放線菌の培養に用いられる培地の使用を含むことが明らかであり、右輸入テトラサイクリンの生産において、かかる培地が使用されていることは当事者間に争いがないから、債務者主張のその生産方法は、本件特許権の権利範囲に属することになる。

五特別事情の存在についての判断

<書証>によれば、債務者が本件仮処分を取り消すべき特別の事情ありとして主張する事実はいずれもこれを認めることができる。

しかしながら、右主張の事実をもつてしては、いまだ本件仮処分を取り消すべき特別事情とはなりえないものといわなければならない。けだし、仮処分を取り消しうべき特別の事情とは、(一)被保全権利が金銭的補償によつても満足しうる可能性があると客観的に認められ、したがつて、それによりほぼ仮処分の目的を達しうる事情にあることと(二)債務者が仮処分を維持することによつて異常な損害を被る場合であることとを指すものと解するところ、右(一)の点については、既に本件仮処分の必要性について判断したとおり、本件特許権侵害に伴う損害は、多面的に広範囲かつ継続的に生じ、その額の把握、立証がきわめて困難であることが明らかであり、結局、債権者の被保全権利は、金銭的補償をもつてしては、これを満足しうべきものとは認めえないものといわなければならない。

また、右(二)の点については、確かに、債務者が現在置かれている経済的諸状況は債務者にとつて好ましいものではなく、本件仮処分によつても打撃を受けるであろうことは推認できるところであるけれども、その主張するような事態の由来するところは、むしろ、本件仮処分によるというよりも、債務者がこれまでにとつてきた企業施策およびつくり出した経済環境によるものとするのが妥当である。すなわち、<書証>によれば、債務者の売上高は、既に三年前の昭和四四年で半年間に金五七、八四四、〇〇〇、〇〇〇円であり、その営業種目はあらゆる化学製品にわたつており、この中において、本件テトラサイクリンの占める比率は、もし、債務者が通常の営業状況にあるならば、とるに足りないものであることは容易に推認されるところであり、これによつても、右の次第をうかがうことができる。

かかる、本件仮処分の目的と直接関係のない事情によつて本件仮処分を取り消し、その負担を債権者に負わせることは公平に反するものといわなければならない。したがつて、債務者の特別事情による本件仮処分の取消の申立はこれを認めることができない。

六結論

以上のとおり、債務者が、訴外ラッシェル・ラボラトリーズ社から輸入するテトラサイクリンは、その生産方法が、本件特許発明の技術的範囲に属するものと推定され、かつ、その輸入を差し止める仮処分の必要性もあり、一方、債務者の抗弁はいずれも理由がないところ、本件仮処分において、債権者は、右テトラサイクリンとともにその塩の輸入の差止をも求めているので、この点についてみる。

<書証>によれば、本件特許発明の明細書には、「遊離塩基としてのテトラサイクリンは、両性物質の特性を有し、酸及塩基の双方と塩を形成する。例えば、テトラサイクリンは、有機及無機酸と共に付加塩を形成し、該付加塩は、塩酸塩、臭化水素酸塩、硫酸塩、硼酸塩、硝酸塩、燐酸塩、アスコルビン酸塩、くえん酸塩、こはく酸塩、酢酸塩、スルファミン酸塩及他の類似性質の酸付加塩の形において得られる。……上記の型の塩は、分離及精製に有用である。……試験管内試験に依て発見された所に依れば、これ等の酸塩及塩基塩は、等電物質或は遊離塩基と同様にグラム陽性菌及グラム陰性菌双方を含む多数の細菌に対して有効である。」との記載があり、この点からみて、本件特許発明の目的物質には、テトラサイクリンとその酸塩したがつて塩酸塩等も含まれるものといわなければならない。また、前掲疎甲第二号証によれば、テトラサイクリンは、その酸塩および塩基塩と相互に容易に変りうるものであるのみならず、その塩は、実質的に特段の別異な化合物とは化学常識上解されていないといえるから、テトラサイクリンとその塩とを、本件特許発明において、同一の目的物質の範囲に属するものと解して差支えがない。さらに、その目的物質の特定の方法も、本件の事案においては、「訴外ラッシェル・ラボラトリーズ社からのテトラサイクリンの輸入」とし、その構造式を示せば足りるものといえる。

したがつて、当裁判所が、昭和四六年一二月一七日「債務者は、申請外アメリカ合衆国ラッシェル・ラボラトリーズ社から、別紙目録記載の物品を輸入してはならない。」とし、別紙目録にテトラサイクリンなる物品名とその構造式(本件申請の理由3記載の構造式に同じ)およびテトラサイクリンの塩を記載して発した仮処分命令は正当であり、かつ、債務者の主張する本件仮処分を取り消すべき特別の事情も認められないから、これを認可することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(荒木秀一 高林克己 元木伸)

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